リンカーンの第二の故郷、スプリングフィールド

アメリカを訪ねた時には、日程や時間の許す限りその州の州都を訪ね、州議事堂に立ち寄ってその姿を撮影する事にしている私は、イリノイ州を訪れた時にも、迷わずスプリングフィールドへ足をのばす事にした。ところがそこで私が見たのは、州都としてのスプリングフィールドではなく、一から十まで、「ランド・オブ・リンカーン」、リンカーンの第二の故郷としてのスプリングフィールドだったのだ。

ケンタッキー州にある丸太小屋で生まれたリンカーンは、イリノイ州の生まれではない。しかし、弁護士になり、後に政治家になり大統領になるまでの二五年間、、社会人としてのほとんどの人生をこのイリノイ州で送っている。そんな訳で、イリノイ州の人にすれば、リンカーンの故郷はここ、スプリングフィールドということになるらしい。

「リンカーンの住んだ家」、「リンカーンの墓」、「リンカーンの事務所」といった案内が、町中の至る所にたっていて、市内はすっかり観光地の雰囲気。

1837年に始めてこの地を訪れたリンカーンは、まだ免許をとったばかりの、若く、名もないいっかいの弁護士にすぎなかった。その後、バンダリアからスプリングフィールドに州都が移される時に活躍、青年弁護士としての名前が知られるようになったのだ。次第に州の政治家としての頭角を現すようになった彼は、副大統領選を含め、何度か当選、落選を繰り返した後、とうとう1860年、共和党から大統領候補としての指名をうけることになるのである。その時、この町では、スプリングフィールドから大統領が生まれるというこで、町中の人々が興奮して大騒ぎになったという。

ところが、これから待ち受ける困難な仕事に対する心がまえと準備を落ち着いて行うため、リンカーンは市民にお祭り騒ぎはしないでくれと頼んだ。市民は彼のため、その願いを聞き入れ、静かにワシントンD.C.へ送り出すことにしたのだ。

1861年2月11日に、大統領としてワシントンD.C.へ出発する日、スプリングフィールド駅につめかけた市民に対して行われたリンカーンのスピーチは、四分の一世紀に渡って一緒に生活してきた、地元市民に対する感謝と、これからの仕事に対する堅い決意が込められた、実に見事な心を打つものだったという。

その後、南北戦争を勝利に導びきながら、1865年、志なかばで暗殺された彼は、再びこの地に戻り、永遠の眠りにつくことになったのだ。スプリングフィールド北郊にあるリンカーンのお墓には、今でも連日大勢の人が訪れ、かれの偉業をたたえている。

また、当時彼が住んでいた、1839年建築のグリーク・リバイバル様式の建物も、スプリングフィールドを訪れる人のほとんどが立ち寄る観光スポットになっている。そしてリンカーン・ホームを中心とする公園は、州議事堂の敷地と同じ位の広さをもっていて、国立公園局が管理をしている。このリンカーン・ホームの公園の中には、リンカーンがマリー・トッドと結婚式をあげた家も大切に保存されていて、中では妻、マリー・トッドの生い立ちや、リンカーンがこの町で暮らした25年間のさまざまなできごとが大切に保存されているのだ。

国立公園局が管理する公園、リンカーン・ホームは、スプリングフィールドの町のほぼ中央にある。2ブロック四方の町並みが、当時の姿のままに残されていて、中には彼の住まいや、結婚式を挙げた家なども保存されている。

リンカーンが住んでいた家。1839年にドレッサー神父のために建てられもので、1844年にリンカーン神父が買い取り現在の姿に改築した。

マリー・トッドとの結婚式に使った建物。これも公園内に保存されている。マリートッドは、ケンタッキーのレキシントンの出身で銀行家で町の名士の娘で、両家の子女だけが行ける私立の学校へ行き、家には黒人召し使いがいるという生活だった。そんな家柄のため、2人の結婚にはかなりの反対があったようだ。

スプリングフィールド市の北郊にあるリンカーンの墓。ここは州立の公園になっている。

リンカーンは、1865年4月9日に南北戦争が終わってすぐの4月15日に暗殺されてしまった。

現在の州議事堂。リンカーンが州都をここへ持ってきた当時の建物も、オールド・ステイト・キャピトルとして残されている。

≪≪前へ  目次  次へ≫≫